外国語を身につけるための日本語レッスン(三森ゆりか)
という本を読んで、だらだら考えたので。
まず、この本の趣旨には賛同する。
いや、この本の趣旨に倣えば「この本の趣旨に私は賛成する」と
書かねばならないのかもしれない。
この本の趣旨は、単純にまとめてしまえば
「英語などの外国語を学ぶより先に、コンテキストを
共有しない他者と日本語で意見を交換できるようにしろ」
ということだ。
そうしないと英文法や発音を練習しても、意味のある文を
英語を始めとした外国語で喋れるようにならない。
さて、上の文節でも、私は曖昧にするための日本語のレトリックを
使ってしまった。第二の文「そうしないと〜ならない。」が、
私の意見なのか本の趣旨なのかの判断を読者に委ねてしまっている。
いちいち「というのが趣旨だ」などと書くと煩雑なので省いてしまっている。
そしてさらに本の趣旨と自分の意見が同じことを暗喩しようとしている。
まさに「曖昧な日本の私」だ。
とはいうものの、この本のなかにも誤りがある。
それは単に用語的な誤りであるともいえるのだが、
「日本語をうんぬんする本の中で基本的な用語を間違えてしまっている」
という事実が、日本語に関する暗部をさらしているともいえる。
それは「主語」という単語についてだ。
この本ではよくあるように「文の主語をはっきりさせよう」といっている。
そして、その例として、まずは次の文のように「私は」をつけることを
提案している:
(私は) どこにいるか分からなくなってしまいました。
しかし端的にいえば「私は」は主語ではない。「どこにいるか(が) 」が
この文の主語だ。
「分かる」は、理解する対象を主語にとる。「道が分かる」「やり方が分かる」
などだ。理解する人物を主語にとるわけではない。
そりゃ、英語では「I got lost」で Iが主語にくるかもしれないが、
日本語はそもそも違うのだ。そこで「主語」を強調してもしょうがない。
では「私は」はなんなのかというと、日本語文法上定説はないのではないか。
20年ほど前に読んだ三上章の「象は鼻が長い」では、「主題」と
読んでいたが、これが定説になったということは聞いていない。
いずれにしても、そういった三井が強調する、そしてだれにでも大切だと
思われる文法要素にちゃんとした定説もない、
その事実が日本語作文の暗部をしめしているようにも思えるのだ。
やれやれ。
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